対人恐怖と思春期 パート1:古典的な精神分析的理解の試み
ふた昔前まで、心理臨床界隈では、「対人恐怖」のことがよく語られていた。日本社会に特有の神経症という理解が専門家の間で一般的であったように記憶する。その具体的な表れとして、人の視線が怖い、視線恐怖症や赤面するのが怖い赤面恐怖症のケースもよく専門家の間で論じられていたように思う。それは特に思春期に発症すると言われていた。思春期には、その他、自分の顔が醜いと感じ人前に出れない醜貌恐怖症、自分の体から人が嫌がる匂いが出ていると思い、やはり人との関わりを避ける自己臭恐怖症などがある。さらに、人が自分の悪口を言っているように気になる関係念慮なども思春期には頻繁に起こる。
このように人と関わることが怖い神経症は多様であるが、多くは思春期に発症する。思春期に一体何が起こるのだろうか?
思春期以前、つまり概ね小学校時代にまず目を向けてみよう。小学校時代、すなわち学童期は、精神分析では潜伏期と言われている。フロイトの考えでは、人間は生まれた時から広い意味で性欲動を持っている。性的な心の状態は動物である人間の心の状態にとって自然なものであり、乳幼児期からそれは存在する。赤ちゃん時代には、それはお母さんのおっぱいを吸うこと、そしてかむことなどに集中するので、フロイトはそれを口愛期と呼んだ。トイレットトレーニングが問題になる、2歳を超える頃になると、今度は排便するのかしないのかが子どもの快の焦点となる。フロイトはそれを肛門期と呼んだ。そして3歳を過ぎたころから、次第に子どもは性器の存在を意識し始め、そして性別を理解し始める。それとともに、家族の基本構造として、両親の関係と、親子関係との厳然として区別がある種の「掟」としてあることを意識し始める。つまり、両親の関係は性的関係を伴う婚姻関係であるのに対して、親子の関係は養育関係であるという区別が社会の基本構造として受け入れないといけないというである。エディプス・コンプレックスとフロイトが呼んだものである。子どもは性的欲望を親に向けるが、それが許されないという禁止の「掟」に出会う。それを通じ、子どもは性的欲動を抑圧する。性的欲動は、水面下に潜在するようになり、子どもは学童期への進んでいく。このようなわけで、フロイトは、学童期を潜伏期と呼んだ。
フロイトの考えでは、人間に、このように性欲動を抑え込む潜伏期が存在するのは、それを通じて文化の継承の期間が子どもに保証されるからである。実際、潜伏期の特徴は、『少年ジャンプ』の努力、勝利、友情というスローガンにあるように、強迫性(反復練習)と躁的防衛(怖いこと、落ち込むことなどの否認)という特徴のもと、読み書きや計算などの基礎的スキルや対人スキルの獲得がなされるのである。第二次性徴で始まる思春期において、そうした性欲動の抑圧はもはや可能でなくなり、エディプス・コンプレックスは再び子どもを揺り動かす。
従来、精神分析はこのように、性欲動の強まりとそれに伴い、両親と自分との関係性をもう一度立て直し、大人として自立できる形を見出すことに伴う、躓きとして、思春期の様々な神経症症状を理解しようとしてきた。先に述べた対人恐怖の様々な表れも概ねそのようにとらえようと試みられていたと思われる。